公益社団法人 岡山県難聴者協会 会長 森 俊己
私は乳児からの難聴者です。生後65日目に肺炎を患い生死の境をさまよったというのは長じてから聞いた話で、その時の高熱のためか、薬の影響か、聴こえを失った原因は定かではありません。幸いにして低音域の聴力はいくらか残りましたが、高音域は全く聴こえません。小鳥の鳴き声などは聞いたことがなく、小学校に入学する頃は、みんなと違う発声をからかわれることも、しばしばでした。
難聴への配慮など全くなかった時代です。地元の学校に通っていましたが、先生の声は充分聞こえず、ボーとして一風変わった子どもだったと思います。学業も芳しいものではなかったはずで、親しい級友も限られていました。小学校という社会での生活に充分対応できず、鬱屈した気持ちを抱えて過ごすうち5年生になり、新しく担任となった竹内育先生と出会いました。私と同じ地区に住んでいた彼女は、私のことを耳にしていたのかもしれません。クラスみんなにこう言われました。
「勉強する上での希望を書きなさい。」
「ラジオを聞いて感想を書くのは嫌だ」と私。
竹内先生に教わった2年間、彼女は一度も視聴覚授業をすることはありませんでした。そして、「一番前に座りなさい」と先生に指示された私は、この時からずっと、長じて学業を終えるまでその指示を守り続けました。人並みのスキルを身につけることができたのは、先生のおかげだと思います。順に回ってくる班長役も、難聴だからといって特別扱いせず、みんなと同じように取り組ませ、根気強く見守ってくれたように記憶しています。振り返ると、竹内先生との2年間が、私の人生のターニングポイントであったと思えてなりません。
合理的配慮といった考え方が全くなかったあの時代に、同情ではなく、静かに思いやってくださった先生のご配慮は、誰も気づかないくらい自然に、でも確かに私を支えてくれていました。今でも時折、竹内先生の面影が浮かびます。直接ご恩を返すことはできませんが、少しでも報いることができないだろうかと、近頃はそんなことを考えています。