「コロナ禍の中、我が家のルーツ探しの旅」

浅口要約筆記penpen 草 山本茂樹
 コロナウイルス感染症も3年が過ぎ、やっと明るい兆しとなってきました。昨年はNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」が放送されました。皆さんは平家物語や保元平治物語などの歴史小説や源頼朝、源義経などの伝記本を読まれたと思います。頼朝は1190年、父義朝の討たれた尾張国野間や父兄が留まった美濃国青墓を通って上洛したと書かれていますが、尾張国での頼朝の行動は知られていません。昨秋落ち込んでいる宿泊施設や飲食店の支援になればと思い現地を旅行しました。私の祖先は愛知県知多郡の出身とわかっていますが過去数百年間、一族で調べた人はいませんでした。中部国際空港の南、ミカン産地で海水浴場がある長閑な田舎町です。先祖の足跡の情報は系譜に記載された「卓家迫罰与力後任京」とわずかな情報です。現地は源頼朝の父義朝の墓がある野間大坊があり義朝の終焉の地です。平家物語などでは源義朝は平治の乱で敗れ東国に落ちる道中に立ち寄った野間領主長田忠致の館で入浴中に襲われ「無念、我に木太刀の一本でもあればむざむざ打たれん」と言って絶命したそうです。今も義朝の墓に木太刀を奉納され山のようになっています。ここまでは史実です。我が家の系譜では先祖は源義朝の従弟に当たる人物となっておりますが、以下の功績内容から清和源氏一門として家譜をもらったのかも知れません。前文の「卓家迫罰与力後任京」を解釈すると、頼朝の命で現地に潜伏し源義朝殺害状況を調査し頼朝に報告、頼朝が親の仇討ちに訪れるまで領主長田氏を見張っていたようです。現地看板には1190年頼朝が京に上洛の時、現地で親の仇討ちをしたとあります。頼朝の仇討ちは、ここには書けないほど残虐な方法で長田父子を数日かけて痛めつけ瀕死の状態にし、最後は磔の刑にしました。残虐な行為をした直後だから朝廷から征夷大将軍に任命される話をこの時は辞退し2年後に受けたのではないかと私なりに推測しています。先祖は討罰の後始末をした後、京都に赴き北面の武士として天皇家に代々仕えました。後醍醐天皇から数々の武功の恩賞として領地を賜り地頭として備後に土着しました。しかし、南北戦争時代に南朝方に付いたため室町幕府から大半の領地を没収され小さな村のみとなる。その村は江戸時代に福山藩水野家の領地となりましたが水野家改易後、岡山藩池田家が幕府から検地を命じられ10万石から15万石となり、増加した5万石は幕府直轄の天領となりした。祖先は上下代官の下で現地代官をしておりました。荒廃した村の寺を私財で修復し福山藩から僧を招いて管理。神社の年貢管理などもしていたと系譜に書かれています。コロナの状況を見ながら今後は、要約筆記の活動にも積極的に取り組みながら引き続き家伝の歴史を掘り下げていくという二刀流で頑張りたいと思います。