9月号巻頭言「共生社会を作るために」(言語聴覚士の仕事と役割)

「共生社会を作るために」(言語聴覚士の仕事と役割)

藤本耳鼻咽喉科クリニック言語聴覚室室長 森 壽子

岡山難聴7月号の「臨床閑話」で、難聴を持って、介護の仕事をしているÅさんのことを書きました。Åさんは、施設側とのその後の話し合いで、今までは一般職員の方と同じように、長時間勤務をしていたのですが、一日の勤務時間を短くし、加えて、施設の職員や入所者の方と、綿密なコミュニケーションを取らなくても出来る仕事を、コンパクトにまとめて、させていただくことになりました。Åさんに出来る仕事は、介護の現場では沢山あり、給与も、大幅な値下げが無いことをお願いしておりましたので、業務内容調整前と、殆ど変わらず、一安心している所です。Åさんも非常に喜んでおられます。

この私の「臨床閑話」の記事を読んで、妹尾会長が、7月号に、次のように書いておられます。難聴と言う障害を理解して貰うことは難しいこと。働く難聴者の職場適応には、自分の障害について説明する能力等が必要であるが、難聴者には、中々それが出来ないこと。このような状況にある難聴者を助ける専門家や助言者、調停者が必要なことなどです。妹尾会長は、Åさんに対して、言語聴覚士の森 が、その仕事の枠を超えて、手を尽くしたことを感謝したいとも、書いて下さいました。褒めていただいて、有難いのですが、妹尾会長の文は、言語聴覚士の私の悩みに、まともに触れたもので、筆舌に尽くせない、複雑な思いを抱かせました。

「言語聴覚士」の仕事は、日本では、昭和38年に、新宿にある「国立聴力言語障害センタ-耳鼻科」で、岡山では、昭和45年に、川崎医科大学附属川崎病院耳鼻科難聴言語外来で、始まっています。岡山や西日本で、聴覚障害児者を対象とする医療専門職は、私が、第一号の言語聴覚士です。国家資格は有りませんでした。川崎病院の言語聴覚士の仕事は、岡大耳鼻科教授であった高原滋夫先生のご指導で始まった仕事で、高原教授が、口を酸っぱくして、私に言われたことは、聴覚障害児者の生活や権利や福祉を守ること、その支援をする医療専門職であることでした。具体的には、生後間もない聴覚障害児に、補聴器を装用させて、言葉を教えることから始まり、彼らが、学校生活で、健聴児と同等に学習出来る教育環境を調整すること。小・中・高・大学の学校卒業後は、聴覚障害を持ちながら、社会の中で、彼らの能力を最大限に生かせる仕事をする為の援助や支援をすること。その為の職場環境調整や助言をすること。日本の医療福祉制度を最大限に活用して、可能な限りの経済的支援をすることなどでした。私が、この仕事を始めて、50年が経ちますが、私は、高原教授の教えを守って、以上に述べたような仕事を、細々とですが、力の限り、こなして来ました。今回のÅさんへの支援も、私が当然、果たすべき仕事であり、役割でした。言語聴覚士の国家資格化が決まった時にも、法的には、言語聴覚士の仕事は、聴覚障害児者への支援であると、明確に記述されています。しかし、国家資格化後20年が経過して、気付けば、言語聴覚士は、聴覚障害児者からは、自分達の生活や権利や福祉を総合的に支援する医療専門職と言う認識が無くなり、聴覚障害児者にとって、非常に遠い存在になっていることです。Åさんにしたことは、言語聴覚士として当然なことで、特別な事では有りません。初心に帰り、もう一度、言語聴覚士の仕事や役割を考えていただくために、11月17日のシンポジウムを提案しました。言語聴覚士は、妹尾会長が指摘される「難聴者を助ける専門家や助言者、調停者である」ことを、難聴の方に、広く周知していただきたく存じます。残念なことに、日本では、耳鼻科で、言語聴覚士が専門性を発揮出来る場所が有りません。何とかして、耳鼻科で働く場所を広げ、本来、目指していた仕事が出来る専門家が育つことを祈念してやみません。最後に、そのような日本の状況で、23年間も、働く場所をお与えくださった藤本政明院長には、心からの感謝しか、有りません。本当に有難く、心よりお礼申し上げます。