2019年7月号巻頭言通訳するということ

通訳するということ

      岡山県聴覚障害者センター所長  中井 智子

 ある講座の講師の方との話の中で、難聴の方は、意思疎通支援者の派遣について十分ご存じだろうかと。例えば、次回の予約が必要な場合、次回のことを伝えると、ご家族のかたが、何度も一緒に来ることは難しいとおっしゃることがあるそうです。成人であれば、いつも家族が一緒でなくても通訳者とともに来れば、対応は問題ないのだが。
ある研修会の通訳を担当した通訳者から、次のような話を聞きました。主催者は、聴覚障害者のために音声を文字に変換する機器を準備されていました。聴覚障害の方と相談し、当事者が「?」と思う部分を手話通訳することになったようです。その機器の変換の精度は高かったものの、通訳者は必要だったようです。
 ある聴覚障害者が講演会に参加した時、健聴者から、この部分は通訳されてなかったと聞き、要約筆記のありがたさは十分感じているものの、通訳されなかった部分も聞きたかったと。
 コミュニケーション手段が様々な方に、通訳をするということを改めて考えるきっかけになりました。
 家族が代弁者としての役割を果たすこともあると思われる前述のやり取り。この家族の思いには、意思疎通支援者の派遣制度について、説明をしたことで、家族の方も大変喜ばれたとお聞きしました。もちろん、心許せる家族がコミュニケーションの仲立ちをすることは、本人にとって安心であることは間違いないことです。ただ、本人の意思が十分反映されるかということが懸念されます。意思疎通支援者派遣制度の詳細が、本当に必要とする聴覚障害者一人一人に届くことがまず必要なことと考えます。
 その上で、通訳をするということを考えたとき、その有り様は、一様ではありません。意思疎通の相手も様々に配慮はされますが、一番大切なことは、聴覚障害者本人が必要とするコミュニケーションの手段が準備されているということ、また、聴覚障害者が安心出来る意思疎通支援者がいるということではないかと考えます。
 世の進歩とともに、変わりゆくコミュニケーション手段。しかし、人と人をつなぐ以上、その仲立ちをし、聴覚障害者からも健聴者からも頼りとされる意思疎通支援者の存在意義は大きいと考えます。それ故、意思疎通支援者の自己研鑽にも期待が寄せられるところです。