「逸失利益」聴覚障害者は40%の是非

2022年3月号巻頭言

公益財団法人 岡山県難聴者協会 会長 森 俊己

 逸失利益という言葉を聞いたのは昨年の夏ぐらいでしたか?難しい言葉ですが「本来得られるべきであるにも関わらず、不法行為が生じたことによって得られなくなった利益」との事です。いわゆる「命の値段」です。
 大阪のろう学校に通う小学校5年生の女の子が暴走してきた重機にはねられ命を失った。この女の子には何の過失もなく、加害者は実刑判決を受け今も受刑中です。
 生まれた時から聴覚障害があり、両親は0歳から早期教育を受けさせ可能性を切り開いてきました。補聴器をつけ、勉強や学校行事にもリーダーシップをとっていて年齢相応の学力もあり、将来はいろんなツールを使いこなし、民間企業で活躍された可能性が高いと容易に推察できます。現在では聴覚障害を持つ医師、弁護士等が増えつつあることを踏まえても残念でならない。
 だが、ご両親は損害賠償として民事で提訴した裁判で突きつけられたのは健常者との「格差」であった。「聴覚障害者は思考力、言語力、学力を獲得するのが難しく、就職自体が難しい。従って、逸失利益の基礎収入を、聞える女性労働者の40%とすべき・・・」と。今の時代にこの司法判断を理解することは私には難しい。ご両親の心中はいかばかりか、察するに余りある。
 ここにあるのは、障害者は一人の人間として扱われない優生思想であり、マジョリティー、大きな権力が生み出す偏見と差別としか言いようがない。聞こえないという機能の障害以上に、これこそが社会が生み出す「バリア」障害そのものでしょう。皮肉な事に被保険会社は障害者雇用において「能力を十分に発揮できる環境づくりを目指す」とありますが、被告側の裁判での主張との整合性をどう理解すれば良いのでしょう。
 私事ですが、多くの最重度聴覚障害を持つ人たちと接してきました。どうしてこの聴力でこの学力があるの?」という人達がいます。でも彼らはその能力に見合う評価を聞こえる社会から受けていない。この不条理を憤りを覚えながらも黙して受け入れる事も人生なのでしょうか? 
 人の価値、命の価値の是非を問います。