「差別を自動ドアに例えてみた」

公益財団法人 岡山県難聴者協会 会長 森 俊己

 コロナに開けくれ2年という時間が経過しました。三密(密閉・密集・密接)を避けるという事は難聴者にとっては、社会的生命を危うくするという事につながりますが、命と引き換えには出来ないとはいえ、その対応が難しいところです。
 マスク越しであったり、近くに寄れない。つまり自助努力を拒否され、難聴者にとって一番の弱点である聴力のみでコミュニケーションを図るという事を余儀なくされています。
聴覚障害の怖さは時間が経てば経つほどその影響がジワジワと大きくなります。そのような状況であっても社会と関わろうという皆さんの姿勢にエールを送ります。
先日、新聞に興味ある記事が掲載されました。上智大学・出口真紀子教授の談です。紹介します。
 「差別はいけません」「思いやりを持ちましょう」という事は差別をなくすのに必要だが、それだけで十分だろうか?
 自分に特権などないと思う人は多いが、実は気付いていないだけ。特権とは「マジョリティー性」を持っているために自動的に受ける恩恵や優位性を指す。マジョリティー性とは多数派ではなく「より力がある側」という意味で使っている。例えば「女性は差別される側で大変だ」との認識はあっても「男性が自動的に優遇されている」という視点がなかった。これは健常者と障害者といった属性にも当てはまる。マジョリティー側には見えていない多くの特権が付与されている。見えてない特権を理解するため自動ドアを例えにしてみた。マジョリティー側は目的地に向かおうとすると次々に「自動ドア」が開き、苦も無く前進できる。これが普通で特に優遇されたという感覚はなく、自分の努力で今に地位についていると思いがちです。
 一方、マイノリティー側は「ドアが開かない」事を度々と経験するためにドアの存在やドアの操作性が不公平である事に気づく。この不公平さが「差別」に値する。しかし、この差別構造が見えていないマジョリティー側はマイノリティーが不満を声にしても「文句が多い」「努力が足りない」で片づけてしまう。
 個人的な見解ですが、それを私たち当事者は潜在的に気付いているけど諦めにも似た声に出せないでいる場面をしばしば見受けます。聞こえない、聞こえにくいという事はコミュニケーション障害であり、社会生活を送る場合、見えない音声言語が仲立ちをしていますが、音声で成り立っている故、聞える方はそこに「自動ドア」がある事すら気づかない。その反面、聴覚障害を持つ者にとって、そのドアは時に固く閉ざされている。あるいは叩いても、ボタンを押してもなかなか開かない。高齢難聴も増えているにも関わらず、年のせいであるとか、福祉対策も後回しにされがちでもあるかと思います。
明日、聞こえなくなっても大丈夫という障害者にやさしい社会とは、障害のない誰にとっても暮らしやすい社会です。聞こえなくても、障害あっても絶望しない社会を強く望みます。